サイト管理人OMUです。
アパレル企画・グラフィック製作会社OM-WORKSを運営しています。
合同会社OM-WROKS
https://omw0708.wixsite.com/omworks-offical
アパレル業界歴13年、アドビイラストレーター・フォトショップ歴13年(フォトショはその半分くらいかもですが。)
メンズ、レディース、キッズ全てのジャンルの国内外アパレルメーカー、ブランドのデザイン、繊維商社に携わって
きました。
では自己紹介します。
1982年。島根県斐川町(今は出雲市)に生まれる。
周りは田んぼ。
目の前には山。
夜になると街灯もなく、真っ暗と言うど田舎です。
幼少期は田んぼでザリガニを捕まえたり、トンボを追ったりしていました。
<小学時代>
絵を描くのが好きで『ドラゴンボール』をよく描いていました。
どこのクラスにもいる絵が上手い奴に部類される。
友達は多かったような気がする。
小学3年生の時に友人にスポーツ少年団に誘われ野球を始めるが
全く才能はなかった。
毎週野球に行くのが辛くて辛くて、しかし仲のいい友達もしていたので
なんか急に辞めるとか言ったら友達も居なくなりそうだったので我慢して卒業まで続けました。
~小学校の時にお金と時間を費やしたもの~
TOMMY-ZOIDS
TAMIYAのラジコンQD(クイックドライブ)
東京マルイのエアーガン
アイススケート
ローラーブレード
<中学時代>
小学時代の友達がほとんど野球部に入るので惰性で中学校でも野球を続けたが全く才能が開くことはなく、部活はつまらなかった。
と言うか嫌いだったのでやる気が出ることがなかった。
相変わらずどこのクラスにもいる絵が上手い奴に部類されていた。
周りのみんなの影響でスケートボードを始めたがあまり才能はなかった。
スケーターファッション、古着、etc..が好きになりだした頃。
周りの友人もどんどんファッションに目覚めていく。
深夜のファッション通信を初めて見る。
煌びやかな世界で憧れはしたが自分とは無縁のものだろうと思っていた。
友達は多かったような気がする。
~中学校の時にお金と時間を費やしたもの~
スケートボード
スケーターファッション
古着
ジーンズ(リーバイスのビッグEをひたすら探していた。)
<高校時代>
隣町の高校に入学。進学校だったが勉強をする気が全くなくなり部活にも入らずフラフラしていた。
同じくフラフラしていた友人ができ、このまま3年間終わるのだろうと思っていたがそいつが急にバレー部入ると言い出しその流れでバレー部に入った。そしてそいつの意外な実力に気がつく。そいつは中学時代はバスケ部のキーマン、ギター、ベースができて歌も上手い、そして少し不良と言う不思議な魅力をもったやつだった。
なんだか影響を受け、バレーを頑張り、バンドを始め、スケボーを再開し、洋服はもっと好きになっていった。
バンドはモテたい一心でジュディアンドマリーのコピーバンド開始。学年でも人気の高かった女性ボーカルをゲット。
学園祭でライブ。
今振り返ると高校の3年間はファッションが目まぐるしく変わって行った時代だった。
高校1年生。ドメスブランド、モード、サイバー、ビジュアル系ブーム。
ブランドは『20471120』『ビューティービースト』『w<』『milkboy』などなど
みんな超個性派ファッションをしていた。
島根にはそんな服は売っていないので鳥取県の米子に遠征。広島、大阪などでみんな買っていた。
私はボンテージパンツにポールスミスのTシャツと言うモードなのかパンクなのかよくわからない格好をしていた。
高校2年生。徐々に裏原ストリートブーム、スケーター、B-BOYブームになって行った。
こぞってスケボーを始め、stussy、supreme、555soul、グレゴリー、ナイキ、GDC、X-LARGE、アルファヌメリック、
音楽はヒップホップ、ミクスチャーの流れでドラゴンアッシュ、RIZE、山嵐、キングギドラ、ジブラ、ニトロ、ライムスターetc…
その流れのまま高校3年生に突っ切っていた。
なんだかんだ充実した高校生活を送った。
そして同時進行で進路を決めると言う大事な時期もきていた。
その時の友人の一言。
『都会に出るなら中途半端なとこじゃなくて東京がいいらしいぜ。』
これが私を東京の大学に意識を向かわせた。
そしてもう数学や物理や社会など勉強したくないと思った私は美術系の学校に行きたい思いで芸術大学を目指した。
しかし勉強だけはまったくやる気が起きず赤点ギリギリ、大学入試に必要なデッサンを始めたのも遅く、受かった大学は3流大学。(今はまーまーの大学になってます)
場所は東京都青梅市。ギリギリ東京。。。
<大学時代>
その大学は『明星大学』。
東京都青梅市と言う東京の外れにある大学でした。
青梅は田舎でした。
地元とさほど変わりません。
ヤンキーもたくさんいました。
大学に行ってもヤンキーがたくさんいました。
『なんて場所に入学してしまったんだ。。。』
そんな思いにで大学生活はスタートしました。
しかしそこで運命を変える出会いをするとは。
そこでファッションデザインに出会ってしまった。
それは先輩の卒業製作展の時、超B-BOYだった私は2XLのT-シャツにSOUTH-POLEのダウンにニューエラのキャップを斜めに被り、先輩のファッションショーを見ていた。
『なにこれ。超かっけー。』
中学時代にテレビで見たファッション通信を思い出した。
目の前を通りすぎるドレスを着たモデル達、会場に鳴り響くおしゃれなBGM。
今思えば学生クオリティーだが、その時の私にとってはパリコレを見ているような衝撃だった。
そしてなんとその賞で素晴らしいドレスを作っていた先輩はティンバーランドの英ローブーツにオーバーサイズのラガーシャツとデニムパンツに坊主頭。超B-BOYファッションだった。
『なんなんだ。こんなB-BOYの人があんなドレスを作れるなんて。』
そんな影響もあり私はB-BOYのままファションデザインコースを専攻した。
そして月日は流れ自分の卒業製作展。私はB-BOYファッションのまま優秀賞を受賞しまました。
その流れでアパレル業界へ。
<社会人編>
新卒で入社した会社はサーフブランド、B-BOYブランド、スケーターブランドを扱う会社に企画職として入社しました。
入社1ヶ月目は店舗研修。と言ってもほぼ本社からのヘルプ要員でしかも大洗にあるアウトレット店舗に行ってました。
ここはセルフで服が売れる場所。とにかくオフ率がすごい。そりゃ売れるわ。
真夏にスタジャンが売れてましたw
この店舗ではひたすら商品整理と補充。あっと言うまにTEEシャツが売れていきます。
ひたすらTEEシャツを畳み、ひたすら整理整頓していました。
立って服をたたむ方法はこの1ヶ月であっと言うまに覚えました。
ここで洋服売るのって楽しー!!ってなってました。
そして1ヶ月後本社にて企画職スタート。
ハッキリ言って。まったく何もできませんでした。
あんなに学校で勉強したのに。
学校で習った知識はほとんど使用しない。
まじか。と思いました。
しかし厳しくも優しい先輩方にしごかれ、
3ヶ月でイラストレーター操作の基本を覚え、
展示会、ファミリーセールなど経験し、芸能人のモデル撮影なども経験し、各店舗の店長やスタッフと仲良くなり。
クラブ遊びを覚える。
22歳にしてクラブ遊びを覚えてしまいました。
そりゃB-BOYブランドの人たちと仲良くなればそうですよ。
日曜日は出勤でもないのに無駄に店舗に立ったりしてました。
なんだかんだで楽しい毎日でした。
入社してから2年ほど経っていました。
しかしこのままで良いのか?
と不安になっていた頃、
先に転職していった先輩からのお誘いがあり、
青山のアパレル企画プリント会社に転職。
そこで様々な体験をします。
この会社は各ブランドさん、繊維商社に対してグラフィック作成、プリント加工の受注、企画ディレクションMAPの作成をする会社。
つまり、
プロ相手に仕事をしなければならない。
これはかなりハードルが高かったです。
プロの中のプロにならなければ。
なのでここでもまた最初の1年は何もできませんでした。
しかしここでも厳しくも優しい先輩方にしごかれ、
2年目からは一人でお客さんの元へ行き商談をしたり、複数ある案件を
なんとかこなせるようになっていました。
そこからが本当にあっと言う間。
後輩を育てたり、自社ブランドをしたり、中国、オーストラリア、アメリカに出張に行かせてもらったりと
アパレルに関わる様々な事をさせてもらいました。
そしてその後独立。何人か先輩方も独立しています。
みんな今でもアパレル業界で活躍されています。
実は何度か辞めようと思った事もあります。
しかし数週間たったらまたアパレルの事を考えてしまっている自分がいます。
それを何度も何度も経験しました。
これはアパレル業界から見た色々なことを綴るブログとなります。
自分が経験した事の共有ができればと思っております。
宜しくお願いします。
コメントを残す